得源寺の紹介
寺院の名称:得 源 寺(とくげんじ)
宗 旨:浄土真宗
宗派の名前:真宗大谷派(お東)
本山の名称:真宗本廟(東本願本尊の御名:南無阿弥陀仏
お 経:浄土三部経 仏説無量寿 経
仏説観無量寿経
仏説阿弥陀経教 え:本願を信じ念仏申せば
仏になる。
宗祖の御名:親鸞聖人
現在の住職:大橋友啓(14世)
所 在 地:〒929-2121
七尾市他田鶴浜町へー6
電話 0767-68-2096
Fax 0767-68-809
沿 革
当寺の縁起によれば、丹後の国萩原氏一族少弐(本名大橋少弐)が出家して京都吉田無辺寺の僧となって、後に丹後の国田辺に住みました。
1480年(文明12)に真宗に帰依し、能登の国田鶴浜村に来て居住、少弐坊と言う農名を持っていたらしく、三引の集落に少弐米という名前が残っていたそうです。
三代目少弐が名前を浄真と改めて1557年(弘治3)に一宇を建立して大量坊と号しました。当寺では、この浄真を開基(初代)としています。三代目浄意は、大量坊を改めて1693年(元禄6)に本願寺から寺号を許されてから得源寺と号します。
元禄6年8月26日付で寺号を得源寺
とする書状。 (得源寺蔵)得源寺は、はじめから現在の場所にあったのではありません。1682年(天和2)の田鶴浜村絵図には、現在の柴田菓子舗の辺りに記されています。度重なる田鶴浜の大火に会い1863年(文久3)10月に村はずれの現在地に門徒30件で本堂を再建したそうです。よって、現在の本堂はかれこれ築140年を経ていることになります。
この地は「郷侍邸宅配置図」を見ると「御旅屋」となっています。その後は「御蔵」と記されてることから鹿島半郡の領主となった長家と関係の深い場所であった と言われています。今も残っている土塁から往時をしのぶことができます
釣鐘堂と柴田真次
当寺の釣鐘堂は、1919(大正8)年に田鶴浜の名工と言われた堂大工柴田真次によって建てられたものです。当寺の建っている田鶴浜地区の門信徒が聴くのだから釣鐘は田鶴浜地区の者が寄進して、堂は三引地区が引き受けると言った駆け引きがあったそうです。
落慶法要の写真(得源寺蔵)
真次の友人が沢山いた田鶴浜地区では堂の柱の寸法は釣鐘の直径で決まると言う事から早々に鐘を購入し、大工は真次と決定したために、材料はきりがないほど必要となるなど、返って鐘の方が費用が高く付くと思っていた三引地区門信徒の負担が大きくなってしまったと言われているほどたくさんの材料の中から選りすぐったものだけを使用したそうです。
当釣鐘堂は、切り妻屋根にもかかわらず四方に屋根の張り出した入母屋に劣らない重厚な屋根を特徴とします。
真次の描いた立面図(80cmx70cm)得源寺蔵
柴田真次は、1857(安政4)年に堂大工信平の長男として生まれ、12歳で京都に出て現在の田鶴浜町吉田出身の堂大工柴田真助の弟子となって技術を修得しました。父信平の死去により一旦帰浜して父の建設中であった住吉神社を完成させたのが若干16歳でした。
22歳の時に現在の京都東本願寺の御影堂に向かって左側の手前を師匠柴田真助とともに受け持ったことから一躍全国にその名が知れ渡った人で、62歳に当寺の釣鐘堂を建て、横浜市鶴見の曹洞宗大本山総持寺紫雲台、門前総持寺祖院太祖堂同じく山門など寺社建築に大きな足跡を残して1940(昭15)年1月15日84歳で死去しました。真次が東本願寺の用材で作った墨壷の底
越後中蒲原郡
布目村六百年
土中ニアレシ
今度東本山ノ
柵虹梁備ラレ
コノ木ニ之ス
ノト
タツルハマ
柴田
新ニ作
建立当時の釣鐘は、戦争に供出され現在のものは当時のものより一回り小さくなって1948(昭23)年2月に新調されました。
学 童 疎 開
昭和19年7月 東条内閣はついに総辞職に追いこまれましたが、小磯内閣は、一億総武装・神州不滅・本土決戦などをキャッチフレーズにして戦争を続けました。
政府は、6月末から大都市学童の集団疎開をきめて、田鶴浜へは大阪市中野小学校の児童が疎開してきました。
中野小学校の児童たちは、9月16日夜、母親たちの涙に見送られて「勝ちぬくわれら少国民」という歌を歌って汽車に乗ったのだそうです。よく朝、金沢に着いて瓢箪町小学校に立ち寄って昼食をとってから七尾線に乗りかえ、6年生は能登部(今の鹿西町)へ、5年生は鳥屋町へ、そして34年生が田鶴浜町に来ました。3年生は、中町の称連寺へ、4年生は殿町の悦叟寺と得源寺に分かれました。
田鶴浜駅に下車したころから台風のために強風が吹き、夜になってますます強くなり、本堂がきしみ音をたてながらゆれ、担任の太田先生は、一晩中眠られなかったそうです。得源寺境内にあった大イチョウの木が倒れたのもこの時だったそうです。
学習は、田鶴浜小学校の3教室があてられました。
児童も先生も、別れのときに母親たちが貧しい配給の食糧の中から持たせてくれたおやつも、2・3日で食べつくし、空腹にたえかねて、学校に行く元気もなくなり、境内や浜辺でだき合ってなぐさめあっていた児童もいたそうです。
農協をとおして集団疎開の児童たちに野菜なども優先的に配給されましたが十分足りるものではありませんでした。しかし、町内の人たちや農家の協力で寒い冬を乗り越えて、昭和20年を迎えました。5月7日正午過ぎに疎開児童が収容されていた中町称蓮寺から出火した火は、田鶴浜駅近くまでの東側約115戸をひとなめに焼きつくして、 3時ころに鎮火しました。
疎開児童は、持ち物は焼きましたが山村寮長 の指揮で無事に避難し得源寺に収容されました。
大火後、集団疎開の学童たちは、得源寺と悦叟寺に分かれました。ノミとシラミに苦しめられ、空腹が続く中で、8月15日の終戦を迎えたのでした。
その年の10月までに、学童たちは全員引上げて行きましたが、中野小学校の学校日誌には、『10月18日、本校集団疎開児童職員復帰』とたった一行に書かれてあるだけだといわれています。(田鶴浜町の歴史 下 から)
青少幼年教化活動
当寺13代住職義友は、陸軍航空隊に所属して航空機のパイロットとして第2次世界大戦に参戦。奇しくも特攻を免れて終戦と同時に復員。
戦後いち早く町内の子どもたちを集め、得源寺に「長養日曜学校」を開校。たいした娯楽も無かった時代に、声明練習や花まつり、サイクリング、夏季合宿など少年期の楽しい思い出づくりに寺院を開放して青少年の教化育成に努めました。
花まつりの準備をする日校のこどもたち1949(昭24)年5月
また、1973年(昭48)に当寺を母体とするボーイスカウト田鶴浜第1団を発団。以来この40年間に約150人の少年たちがボーイスカウト活動を経験して社会の一員になっています。
発団式を終えて本堂前で記念写真
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